伊東鹿島神社の健康道頌徳碑、伊東オークラボウル、伊東水明荘、音無神社の出居清太郎先生御足跡碑

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ロワジール伊東赤坂の続き。
伊東駅方向に戻り、有朋亭を確認。まあどうというほどはない。

途中で鹿島神社を見つけた。
石段下の鳥居の時点で既に木々が鬱蒼と茂り薄暗い。異界ムード漂い魅力的だったけど、先を急ぐので上までは登らなかった。
ただこの鳥居のそばに、気になる銅像があった。

「健康道頌徳碑」とあり「伊東健康大学」の文字が見られる。後で調べたところ、この人物は鹿島神社(湯川神社)の神主さんで、彫刻家・重岡健治氏による像だった。昭和57年に97歳で亡くなったとのこと。伊東健康大学は伊東健康長寿会を前身とし、天城温泉療養所の院長・佐藤清一先生が主催された会。佐藤清一先生は坂口安吾の『肝臓先生』のモデルになった人物とのこと。肥田式強健術などを取り入れた健康法を広められたという。
肥田式といえば、武術をやる者なら聞いたことくらいはあるはず。その流れをくむ団体に銅像を建てて貰ったということで、大分遠いけれど妙な符号は感じる。
で、以上の情報を得たネット上での数少ない(ほとんど唯一の)ソースが日々のこと/無題というページ。これなんと、この銅像の神主さんのお孫さんが書かれているのである。つまり「おじいちゃんの思い出」として語っているということ。おじいちゃんと言っても97歳で亡くなるまで同居されていたそうだから、かなり近い存在。勘定から言ってこの文章を書いている方も結構な年齢だと思うのだけど、なんだかジーンと来てしまった。

さて出発すると次なる物件。
伊東オークラボウル。まだ閉業からさほど経っていない。

以上、伊東オークラボウル。
以下は散策しながらだけれど廃なようで廃ではない。


このホテル下田屋さんは側面の汚れが良い感じだし、正面の朽ち具合はまだ足りないがフォントも渋くて素晴らしい物件!と思い近づいたら自動ドアが開き、思い切り現役であった。すいませんでした。

タワーホテル新松原を遠景のみ撮影、南伊東方面に向かい、ガンガン山を上って旧・市立伊東市民病院を確認。電動アシストとはいえ、なかなかキツい。どうしてこんな山の上に病院を建てたのか。ちなみにガッチリ管理されている建物なので、さほど見るべきところはない。大きく「移転しました」の張り紙がある。
ここから戻る過程で伊東市鎌田の家源泉萬歳を確認。
また大山祗神社も撮影した。

以下しばらく、廃とも寺社とも関係ない。

さて、伊東の残された大物。伊東水明荘である。

以上、伊東水明荘。
以下、伊東市湯田町の社員寮

伊東の廃関係では、大物で残っているのはロワジール伊東赤坂、伊東水明荘、タワーホテル新松原ぐらいだろうか。三者三様に個性が異なるのが興味深い。

さて、いきなり寺社関係なのだけれど、伊東市街を散策中に音無神社を見つけた。伊豆国の蛭ヶ小島に流された源頼朝が、平氏に仕えていた伊東祐親の娘・八重姫と逢瀬を重ねた場所だという。
この神社に「出居清太郎先生御足跡碑」という石碑があり、なんだかよくわからないので後で調べたところ、出居清太郎とは修養団捧誠会(しゅうようせいほうせいかい)という新宗教の創始者。青年期に関東大震災の惨状にあい人身救済を決意、旅の途中でこの音無神社で木の根を枕に一夜を明かしたという。
神道系の新宗教なのか、今ひとつ関係がぼんやりしているけれど、要はこの出居氏が神社で寝た、といういわれらしい。
まあ「腰掛け石」的なものでも神格化されるのだから、石碑くらい建てても良いのだろう。

道路を挟んで最誓寺が隣接する。勿論旧別当だろう。
頼朝が八重姫とキャッキャウフフするのだけれど、八重姫パパは平氏の家来。八重姫が産んだ頼朝の子は、敵の子を産むとはケシカランということで殺されてしまう。最誓寺は八重姫がこの子の供養の為に建てたという。
孫を殺しちゃうパパもパパだけど、八重姫ももうちょっと後先考えろというか。
このお寺はには天然記念物のソテツ、伊東市文化財指定一号の伊東家墓碑などがあった。

廃ばかり見ていると、日頃アホほど見ている寺社に本当に癒やされたりする。

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