むかわ町のトーチカ

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ハヨピラ自然公園、ラーメン平成軒鵡川店(かに秀)、むかわ町汐見のセスナとミサイルのつづき。
むかわ町のトーチカを巡る。
苫小牧市東部、厚真町、むかわ町の海岸部一帯には、札幌および千歳と苫小牧にそれぞれ二箇所あった飛行場の防衛のため、1944(昭和19)年、第77歩兵師団により47基のトーチカが構築された。このうち、むかわ町には4基のトーチカが現存する。
英霊に合掌。


むかわ町汐見の建物


以上4点、汐見海岸トーチカ


以上2点、鵡川河口トーチカとその前の海。
もう、びっくりするくらい地平線の見える海岸沿いの砂利道を入っていく。地元の人には何でもないのかもしれないが、「本当にこんなところ大丈夫なの!?」と不安になるような場所だった。
猛烈な風と泡立つ海。壮大すぎて笑いだしたくなる風景だ。
このトーチカ跡によじ登っていた時、某美容関係から予約確認の電話があった。「ご予定通りお越し頂けますでしょうか」「あ、大丈夫ですー」。なんだこの状況。
人影どころか建物一つ見えない風景の中で、毛穴がどうとかシミがどうとか。
小さくて大きいのが人間だ。


チンタ浜踏切トーチカ


スピードダウン!

これを書いている今、丁度神之池航空基地の遺構を見に行ったところで、戦争のことを考えていた。
たとえば良からぬ場所に良からぬ格好で出かけて痴漢被害に会った人がいたとして、「そんな場所に行くのが悪い」と他人が言ったらそれは筋が悪いというもので、やはり痴漢が悪い。しかし同時に、正しさなど救いにもならないわけで、本人や周囲としては用心に越したことはない。自己責任と「痴漢が悪い」は別に矛盾しない。どこで誰が語るかの問題だ。
最近戦場ジャーナリストの人が自己責任だのなんだの聞き飽きた非難を浴びていて辟易したが、そんなものは自分が言うから意味があるのであって、他所様がガタガタ抜かすことではない。税金がどうとか、国家様にでもなった気だろうか。土着の平民なのだから分を守るのが日本人だ。
子供が騒いで迷惑をかけて、周りの他人が「まあ、子供のやることですから」と声をかけるのは丸く収まる筋だが、親が自ら「まあ、子供ですから」とヘラヘラしていたら頭が湧いている。
靖国云々についても、軽んじる態度に対して「英霊をなんと」と憤然とする人々がいて、これに対し「政治は政治、遺族の心情は心情と切り分けよ」というのはまことにもって正論だが、そんな風に割り切れないから感情なのだ。大体、人は感情で生きている。
戦争に行って死ぬのは貧乏人で金持ちは後ろでヘラヘラしているとか、それはたぶんその通りだろう。しかし免れない死があるなら、そこに意義を見出したいというのも人情だろう。
「肉屋を支持する豚」を嗤うリベラルが一番信用できない。どうせ肉になるなら肉屋に何某かの意味を見出したいのが情だ。弱さゆえの偽の物語かもしれないが、弱いのが人間ではないか。彼らの言う「弱者」など想像上の産物に過ぎない。本当に弱い人間は大体「悪いヤツら」だ。
はっきり言えば、戦争には間違いなく口減らしの意味がある。死んでくれた人のお陰で残りの人間が生きている。殺さずに済むならそれが一番かもわからないが、自然はそういう風にできていないのだろう。人類開闢以来ずっと人は適宜殺し合ってきたし、これからもそうだろう。
そういう矛盾の中にわたしたちの生があるから、骨が転がっているだけの墓にも参るのだ。
戦争はいけないとか、感謝だとか鎮魂だとか、短いワードでさくっとまとめられては堪らない。
言葉を失って初めて言葉だ。
「戦争はいけない」。まあそりゃそうだ。病気だって死ぬのだって交通事故だって、ないに越したことはないだろう。そんなことはわかっている。
そこから先の、言葉にならないもののために、嘘八百の物語とか、わけもなくデカい墓なんかがあるのだ。
生きてしまった恥を雪ぐためなら、人は人だって殺すし、また何度でも戦争くらいするだろう。だからなんだ。生きて生きて、それがどうかしたのか。
全部わかって、なおどうしようもないから黙るし、もう歩いてきてしまった道をなかったことにもできない。
ガキは黙ってればいい。
誰もそんなに綺麗に生きていない。

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