鹿浜、谷在家の由来、西新井大師の読み方

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足立区鹿浜から環状七号線より北のエリアを東に進み、日暮里舎人ライナーを西新井大師西駅付近でわたり、大師前駅まで。
訪問した寺社は以下の通り。

島氷川神社
糀屋氷川神社
古内天祖神社
寳藏寺
東北野神社
椿日枝神社
子の神稲荷神社
阿弥陀院
赤城神社
本応寺
西新井浅間神社
西新井氷川神社
西新井大師総持寺

炎天下でキツかったことに加え、西新井大師周辺を除くと、正直、町が単調だった。郊外というほど田畑が混じるわけでもなく、都会でもなく、商店街もなく、古い建物もない。ただほどほどの住宅と工場があるだけで、練馬板橋に見られるような町と埼玉的平地の混ざる感じもない。ひたすら人が住んでいるだけの空間だった。
地図で道筋を眺めると直線が多く、おそらくかなり近年になってから開発された地域だろう。航空写真で確認すると、高度成長期にはまだかなり田畑が残っていたことがわかる。
もちろんそれ以前から人は住んでいたのだろうけれど、土地が低いのでほとんどが田畑か沼地だったのだろう。
「鹿浜」の「鹿」は元は「シカ」ではなく「シシ」と読まれており、「シシ」とは水分を大量に含んだ土のこと。すなわち「水っぽい浜」ということで、荒川沿岸の湿地帯だったと推測できる。
そこから東に進むと住所上は江北となるが、元々の地名は江北村上沼田。もうそのまんまである。
もっとも、この辺りは大体そんなものだったはずで、我が家があるのも荒川沿いの元湿地帯だ。足立から埼玉南東部は基本的にだだっ広い湿地帯である。

日暮里舎人ライナーに「西新井大師西」という駅があるけれど、このネーミングも回文みたいで面白い。要するに西新井大師以外に特にポイントとなるものがなかったのだろう(これも普通のことだけれど)。「西新井大師西を西に行って」とか言うと冗談みたいだ。
ちなみに「西新井大師」は「にしあらいだいし」。「たいし」ではない。ずっと「たいし」だと思っていた。

西新井大師西駅の一つ北にある谷在家(やざいけ)駅というのも面白い名前だ。かつてこの辺りに谷田川という川があり、その跡の「谷」に植民した人々が住んだから、とか、高野山の谷に住んでいた人びと(在家信徒)が移り住んだから、とか諸説あるらしい。
「在家」とは「一定の地位をもつ中規模自作農」を指す言葉で、荘園制度における「荘園・公領での徴税の単位」に由来するらしい。要は屋敷村ということだろう。在家のつく地名は全国あちこちにある。上の二つの説ではたぶん前者が正解だろう。後者は後年になって一般化した仏教用語としての「在家」に引っ張られた後付けの理屈ではないかと思う。

例によって写真は寺社にはあまり関係ない。


以上2点、西新井浅間神社


立区西新井1丁目のビル


西新井大師総持寺


バスから撮った最後の一枚が一番マシだった。

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