薮塚石切場跡、ジャパンスネークセンター、アドベンチャーランド

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東武桐生線でわたらせ渓谷鐵道始点の相老駅から三駅、新桐生駅から二駅太田駅方面に向かった藪塚駅。行政上は太田市、桐生と太田の間に位置する。
かつては養蚕で知られたらしい。藪塚温泉がある。
特に積極的に訪れる町ではないかもしれないが、廃スポット好きには魅力的な名所が二つもある。


以上8点、薮塚石切場跡
藪塚石の石切場跡で、昭和30年代に閉山したらしい。
石材と言えば大谷石で、大谷石採石跡が知られ、大谷石地下採掘場跡、山本園大谷グランドセンター、東武宇都宮駅で訪れている。
藪塚石は大谷石に比べると品質的にやや劣ったらしく、石切場跡も小ぶり、その分華やかな観光地になっておらず、山中に突然古代遺跡が現れたような手付かずの荘厳さが残っている。

ここから徒歩でぶらぶらと移動。


以上1点、ジャパンスネークセンター前の食堂

そう、やって来たのはジャパンスネークセンター。お目当てはアドベンチャーランドの遺構だが、ジャパンスネークセンター自体もB級スポット的に相当魅力的である。
ジャパンスネークセンターは一般財団法人日本蛇族学術研究所が所有、運営管理を行っており、毒蛇の研究及び利用を主目的としている他、飼育している蛇類を展示・公開している。国内で唯一、ヤマカガシの毒に対する血清を製造・保管しており、咬症が発生した際は空路・陸路で搬送が行われる、とのこと。
売買の禁止されているヘビ類をペットとして輸入しようとして発覚、といったニュースを時々目にするが、そうした時に保護された蛇を引き取ってくれているそうだ。

このように研究保護施設として大変立派なジャパンスネークセンターなのだが、一般観光客からすると昭和スポットとして一級である。
入り口ゲート前の食堂も上記のように朽ち果て、チケット売り場兼土産店も高度成長期くらいから少しも変わっていないような作りで、モギリのおばちゃんが手で管理していて、全体的にかなりカビ臭い。
屋外の飼育場所も蛇が不在で不使用状態、ただ雑草だけが生えている、という箇所が多い。
展示内容ももうすぐ平成も終わろうという時代とは思えないレトロ感溢れるスタイルで、蛇に噛まれた傷など、今では考えられないくらいグロい写真も飾ってある。
皮肉ではなく、こうした展示が現役で活用されているのは大変素晴らしい事例だと思う。
昭和レトロなムードを味わいたいなら最高というマニア視点だけでなく、運営者サイドからしてもとてつもないコストパフォーマンスを発揮したことになる。普通なら二十年以上前に没落し廃止されていてもおかしくないスタイルで生き残ってきたのは、施設の公共性、展示内容の質の高さなど故であっただろう(地代が安かったというのもあるだろうが…)。
ちなみにわたしたちが訪れた際も、家族連れや大学生らしいグループなどでそれなりにお客さんが入っていた。決して寂れ果てているわけではない。

さて、このように昭和趣味的にも魅力的なジャパンスネークセンターなのだが、わたしたちの最大の目的はアドベンチャーランド
藪塚石切場と同じく、石切場跡を利用して作られた恐竜のテーマパーク的な施設だったが、落盤により閉鎖された。
これがジャパンスネークセンターの敷地内に残っているという。


以上6点、アドベンチャーランド。残念ながら恐竜の全体を撮影できるところまでは近づけなかったが、見事発見できた。
このアドベンチャーランド、石切場が潰れた跡に作られたのが更に潰れて跡地にジャパンスネークセンターができた、という説明をよく見かけるのだが、ジャパンスネークセンターの園内地図にも恐竜洞窟が記載されていた跡がある(後から消した形跡が見られる)。
ということは、ジャパンスネークセンターのオープン時にはこの洞窟も公開されていたことになる。
推測であるが、ジャパンスネークセンターとアドベンチャーランドはもともと一体的な施設、またはジャパンスネークセンターの一部にアドベンチャーランドがあったのではないだろうか。
ド素人視点的には、蛇と恐竜ということでなんとなくトカゲっぽさが通じているし…。

以下もジャパンスネークセンターを普通にエンジョイする。

以上、ジャパンスネークセンター。
藪塚をついでにブラついてみる。

爬虫類で色々商売している。


太田市藪塚町のバラック
この地域では農家の納屋のことを「バラック」と呼称し、かつてはどの家にもこうした小屋があり、養蚕を行っていたという。
丁度自宅の古い納屋を取り壊しているところに通りがかり、家主らしいおじさんに説明して貰えた。
この方は還暦すぎくらいの年齢だそうだが、子どもの頃はまだ普通にどこでもカイコを飼っていたとのこと。
今も飼っている家はあるだろうが、産業として輸入品と競り合える状態ではないだろう。


以上2点、薮塚駅近くの民家にあった蔵。
石材問屋?の蔵だったらしい。

石と養蚕の町だったのだ。