2015年年末の上野不忍池。
久しぶりに行ってみたら、結構楽しかった。
例によって野鳥の種類はおぼつかないので、間違っていたらゴメンナサイ。
写真はkiwi氏撮影。
ユリカモメ。
カモメは世間的なイメージと違って、結構意地汚いというか、行動を見ているとあんまり美しい感じはしない。色が白いからなんとなくイメージが良いけれど、やってることはカラスに似ていると思う。
オナガガモのメス。
ばしゃばしゃー。
さて、エサやり風景。
不忍池では野鳥のエサやりは禁止されていて、実際、見ている間にも管理の人?が通りかかって「エサやらないでね」とやんわり注意しているのだけれど、実際は結構色んな人がエサをやっている。
野鳥のエサやりについては色々な意見があって、最近は必ずしも「断固禁止」という訳でもない。
最近某所で紹介した三上修さんの『身近な鳥の生活図鑑』でもこの問題に触れていて、都市部では禁止されている場所を除いてそれほど神経質にならなくて良いのではないか、というようなことを書かれていた(実際はもう少し細かく分類して扱っている。センシティヴな話題なので慎重な扱い方)。
自然豊かな地域ならいざしらず、東京のど真ん中で、既に都市に適応した野鳥に対してエサやりを禁止してもあまり意味がない、ということのようだ。むしろ市民が野鳥と触れ合う機会にもなるし、子供がエサをやるくらい多目に見てあげた方が結果的に野鳥の保護にもつながるような気がする。
まぁ、都内のいくつかのスポットでは、それにしたってさすがにやりすぎ、という感じにはなっている。
不忍池の野鳥も、もう野生の欠片も残っていない。スズメやハトならいざしらず、オナガガモなどもすっかり家畜のようになっている。
明治神宮でもヤマガラが手にとまったりしている。
最低限、エサをやるなら陸上で、くらいは守った方がいい。水にエサが入ると水質が汚染されて問題が大きくなるようだ。
それよりも気になるのは、エサやりにはエサやり依存的な人がまま見られることだ。
特に不忍池などでは、鳥にエサをやることでなんとか精神のバランスを保っているような雰囲気の人たちもいる。そういう気持ちも理解できる。
人は誰かにエサをやりたくなる生き物なのだ。
エサをやることで全能感を得るとか自らの価値を確認する、といった安っぽい説明もできるし、まぁそういう面もあるだろう。
しかし誰かを「世話する」というのは、単に自分が上とか下とかいう話ではなく、自分というものを世界と結びつけるような働きがある。
子はかすがいと言うけれど、それは単に夫婦の間のかすがいというのではなく、世界と自分との間をとりもつようなところがある。
世話をしてかすがいになれるのは子供だけではない。
鳥にエサをやることで、やっと世界にギリギリ触れているような人たちがいる。
そういう人たちから、無闇にエサやりを取り上げてしまうのもどうかと思う。
以前、海外の動物愛護団体が、ホームレスから犬を取り上げている映像を見た。
確かに、この犬の飼育環境は良好とはいえないだろうけれど(なにせ飼い主にも家すらないのだから)、犬をとりあげられた老いたホームレスは涙すら流していたのだ。
そんなにまでして、小奇麗な「ちゃんとした動物との接し方」を通すことが、安全圏リベラルの傲慢でなくてなんであろう。
地球環境や動物愛護の前に、わたしたちは地べたを這うようにして、惨めに地に落ちた僅かな愛を糧にして、虫のように生きているのだ。
わたし個人は野鳥にエサをやらないし、一部の都市エリアを除いて、できることならやらない方が良いことかと思っている。
でも、エサをやってやっと生きているなら、地球環境も動物愛護も社会のルールも踏みにじって、圧倒的に暴力的にエサをやったらいい。
わたしたちは、そういう狂った愛で病的に世界と交わっている。エサをやろうがやるまいが、わたしたちはそうやって狂おしくもこの世を駆け抜ける。
どのみちそんな小奇麗な連中が彼・彼女らを守ってくれるわけではない。
柵を越え、道を横切ってエサをやればいい。
たぶんセグロカモメ。
変わった柄のドバト。
ゴイサギ。
コイツを見るといつも「ギュッとなっていてバッジみたい」と思うのだけれど、kiwi氏に言うと「意味がわからない」と言われる。
バッジみたいだよねぇ。
ハシビロガモ。
カモの中でもひょうきんで好きな種類の一つ。
たぶんセグロカモメ。